>  1  |  2  |  3  | 全部読む

2007年11月05日

●ぼくらはいつでも旅の途中

天山南路シルクロードを行く旅の最終日は、慌ただしい1日となった。

9時すぎにクチャ空港よりウルムチへ飛ぶ。小型のプロペラ機にて、約1時間半のフライトだ。途中、天山山脈上空を飛ぶことになるが、もともと高度が低いこともあり、眼下に見える山々が迫ってくるように見えた。古き旅人たちは、この山脈をも越えたのかと思うと畏敬の念にとらわれる。

クチャからウルムチへ:クリックで拡大
天山山脈の上を飛ぶ飛行機は異様に低空飛行に思えた
ウルムチへ戻ったぼくらは食事を済ませ、ウイグル自治区自然博物館を訪れた。ここは新疆各地で発見されたミイラが展示されており、中でも有名なのが楼蘭美女と呼ばれるものだ。保存状態のよい彼女は、たしかに美女だった。

続いてやってきたのは市内のバザールだ。こちらは観光向けなので売っているものはみやげ物ばかりだが、雰囲気自体は悪くはなかった。

買い物を終えぼくらは再び、空港へ向かう。駆け足だったツアーも終わりを告げ、上海という名の日常へと舞い戻る。その手には幾許かの土産と、千数百枚にも及ぶ旅の記録、そして大切な想い出があった。上海行きの飛行機を待ちながら、撮りためた写真を横目に旅の記憶を振り返る。

それは様々なことを学ぶ旅であったように思う。この国の広大な大地と悠久の時間、国ではなく民族という単位、そして日常の中の信仰。旅はいつでも、いろんなことを教えてくれる。そしてぼくらはいつでも旅の途中。人生という長き旅の中、まだまだ学ぶべきことはたくさんあるのだった。

2007年11月01日

●イスラムの刑罰

クチャ市内に戻ったぼくらが次に訪れたのは、クチャ大寺という由緒あるモスクだ。

新疆イスラムシーヤ派の始祖イスハク・アリが創建したもので、クチャでは最大の寺院だ。エティガールを見たあとでは小さく思えるが、それでも数千人を収容できる礼拝堂や、高さ19メートルの尖塔を持つ立派な建物である。そんなモスクの片隅に、かつての裁判所跡があるという。

クチャ大寺の裁判所:クリックで拡大
イスラム式の裁判所では判決後、即刑の執行だったようだ
薄暗い小さな建物に入ると、縁側のように高くなった部分と土間のような場所に分かれている。ガイド氏の話しでは高い位置に裁判官が座り、土間のような部分に被告人が位置したという。さしずめ近世日本の白州のようなものか。

その中でも異彩を放っているのが、机の上に並べられた様々な鞭。細身のものは女性用のもの、細長い革袋に砂を詰めたものが男性用だ。

イスラムの教典には、経済活動についても定められていることはすでに書いた。実際にはそれだけでなく、生活すべてを網羅した規範書のようなものなのだという。そこには個人の権利、生命、財産、名誉などを守るための律法も含まれており、法律書としての側面をも持っているのだ。

新疆ウイグル自治区は中国であるから、その裁判は中国の法律に則って行われる。しかし、イスラムを国教とする国々では今も、律法の基本は教典にあり、それを破りしものには容赦なく鞭が飛ぶという。イランではビールを2杯飲んだ男性が、130回ものムチ打ち刑に処されたそうだ。

国や法律の違いといえばそれまでだが、現実の鞭を目の前にして空恐ろしさを感じたのだった。

2007年10月30日

●クズルガハの烽火台と千仏洞

古代の通信方法、とりわけ戦争など火急を要する場合には狼煙(のろし)が使われた。

現代であれば通信衛星などを介して、地球の裏側とでもほぼリアルタイムに会話することができるだろう。ところが古代では伝令役が実際に目的地まで走って、情報を伝達する必要があった。これではどうしても時間がかかってしまうので、発明されたのが狼煙を使った通信方法なのだ。

クズルガハ烽火台:クリックで拡大
悲しい伝説を持つ烽火台
例えば亀茲国の国境付近には、外敵の侵入に備えて数キロから数十キロごとに見張り台が設置されていた。見張り役は敵軍の姿を確認すると、それを知らせる狼煙を上げる。それを見た隣の見張り台でも同様の狼煙を上げ、リレー形式で軍の司令部へと敵襲が伝わるのである。原始的ながら効率のよいシステムだ。

そんな当時の通信システムの遺跡の中でも新疆地区最大として知られるのが、クズルガハ烽火台である。広大な岩石砂漠を縫うように流れる塩水渓谷は当時の通商路でもあり、そこを見下ろす形で烽火台が建っている。およそ2千年前に建てられたもので、建造時には高さ17.8メートルあったそうだ。悠久の時間により風化が進行しており、現存しているのは13.5メートルのみとなる。

この烽火台には、その名に由来する悲しい伝説がある。クズルガハとはウイグル語で赤い関所を意味するが、それ以外に娘が留まる場所との意味も持つ。亀茲国王は晩年、念願の娘を授かった。ところが占い師に娘を見せたところ、100日以内にサソリに刺されて死ぬと告げられた。

占いを信じた王は高い塔を築き、その頂上に娘を隠した。塔に匿われた娘は無事に99日を過ごしたが、100日目の祝いにと贈られた籠にサソリが紛れ込んでおり、彼女はあえなく死んでしまった。それを知った王は嘆き哀しみ、塔の下に身を投げ出して「娘よ、留まれ」と叫んだという。

前述の千泪泉もそうであるが、亀茲国にまつわる伝説はどれも悲しい憂いを帯びているようだ。

広大な川底は通り道となる:クリックで拡大 壁面にある千仏洞:クリックで拡大 クズルガハ千仏洞の遠景:クリックで拡大
左:塩水渓谷は玄奘三蔵も通った道  中:壁面に同化するように掘られた石窟  右:管理人の老人がひとりで住んでいる

烽火台から10分ほど走った渓谷に、クズルガハ千仏洞がある。漢の時代から唐代にかけて合計46窟が掘られたそうだが、残念ながらそのほとんどは破損が著しく封鎖されたままだ。破損の理由は異教徒の侵入、外国の探検隊による掠奪、そして地震などの自然災害によるものだという。

ひんやりとした洞内は色とりどりの壁画で飾られていたと思われるが、ベゼクリクやキジル千仏洞と同じく破壊の跡が著しい。自然災害は仕方のないことだけれど、その他は同じ人間の手によるものだと思うと悲しくなる。なぜ時代の波は時として、人を破壊者に仕立て上げてしまうのか。

顔をえぐられたり塗りつぶされた仏画を見るたびに、いいようのない切なさを感じるのであった。

2007年10月29日

●国破れて山河あり

クチャ最大の仏教遺跡が、チェルターグ山南麓に広がるスバシ故城だ。

スはウイグル語で水を、バシは頭を意味しており、あわせて水源地を意味する。その名の通り、クチャ河水源の流れに沿っており、河を挟んで東寺区と西寺区に分かれている。玄奘三蔵が記した『大唐西域記』に登場するアーシュチャリア寺と考えられているが、現在も定かではない。

スバシ故城:クリックで拡大
荒涼たる大地に、ぽつりぽつりと遺構が残るのみ
スバシ故城は、クチャ市街からクルマで30分程。荒涼とした大地の上に、忽然とその姿を現わした。遺跡というほど姿を留めているものは少なく、その大半は崩壊しかけた瓦礫の山だ。

ほとんど意義を見いだせない駐車場にバスを停めて、かつての寺院跡を散策する。往時にはここで3,000人以上の僧が起居し、修行に励んだという。しかし、今では見る影もなかった。

これだけの規模の寺院が滅びたのには、3つの理由があるという。ひとつは西方から押し寄せたイスラム化の波に抗えなかったこと。ふたつに寺院内部の腐敗と堕落。みっつ目はそれによる社会的信用の失墜だという。細かい説明は省くが、盛者必衰の理がそこにあるような気がした。

国破れて山河あり。栄華のすべては無に帰したが、あとには変わらぬ自然がそこに残っていた。

2007年10月26日

●旅は道連れ

旅は道連れというが、ツアーの同行者たちの間には奇妙な連帯感が生まれるものだ。

お互い、出発ロビーでは知らない同士。けれど、朝から晩までいっしょに飯を食らい、同じバスに乗って移動するわけだから、仲間意識が芽生えるのはごく自然な流れだろう。2日目も終わりごろには互いのキャラも掴めてくるので、ボケたり突っ込んだりが自然にできるようになったりする。

羊肉を挟んだナンを両端からかぶり付く:クリックで拡大
合コン的なノリで、ナンを両端からかぶり付くことに
5日目の夜、夕食を終えてチェックインを済ませたぼくらは、ローカルグルメを求めて夜の街へと飛び出した。ツアーの食事というのは、無難にまとめられていることが多い。年配者もいるから仕方ないことだが、やはり地元民が食べるその土地の料理も食べてみたいと思うのだ。

ホテル周辺は何もなかったので、バスで移動中に見た屋台が集まっていた場所へと向かう。

柔らかな灯と共に目に入ったのは、先ほどホテルで別れたはずのツアー面々だった。皆、考えることは同じのようで、ひと組ふた組と集まって来て、ここで飲み直そうということになったらしい。ぼくらが着席すると同時に山盛りの羊肉串がテーブルに置かれ、紙コップにはビールが注がれた。

ビールをぐいぐい飲みながら、大きな羊肉にかぶり付く。夜空の下、脂滴る串焼きはとても旨かった。すっかり打ち解けた旅仲間たちとも盛り上がり、久しぶりに大騒ぎしてしまった。いつまでも続くかに思えた今回の旅も、残すところあと2日だ。ふと見上げると、空には白い月が光っていた。
 

2007年10月25日

●バザールの子供たち

クチャ(庫車)はシルクロードの雰囲気漂う、小さな(といっても40万人規模)田舎町だ。

もともとここは仏教東進史上、重要な意味を持つ亀茲国が栄えた土地であった。しかし、現在では住民の大多数がウイグル族であり、イスラム教徒の街となっている。彫りの深い男性たちや、スカーフをまとった女性たちが街を行き来し、全体的にのんびりとした雰囲気が漂っていた。

買い出しに来た少年たち:クリックで拡大
ロバ車に乗って街まで買い出しに来た少年たち
クチャのバザールは片側3車線の大きな道を挟んで、食品および雑貨エリアと服飾エリアに大別されている。幹線道路沿いながらのんびりとした空気が流れ、ロバ車トラクターに乗って郊外から買い出しにやって来る客も目立った。

服飾のエリアでは、色とりどりの布やウイグル風のドレスをはじめ、靴や帽子、その他にも何に使うのか判らないようなものを扱っていた。

服飾エリアで目立ったのは、帽子を扱う店が多いことだ。上海で男性が帽子を被っている姿はあまり見かけないが、ウイグル族にとっては紳士の身嗜みらしい。ムスリムを示すお馴染みの帽子だけでなく、ハンチング帽や毛皮のもの、ベレー帽などが所狭しと並び、目を楽しませてくれた。

境界線となる道路を越えて、今度は食品・雑貨のエリアを訪れる。比較的まとまっていた服飾エリアと違い、こちらは混沌とした雰囲気が漂っている。羊肉を焼く煙がモウモウと漂う中、荷台に無造作にナンを積んだバイクやロバ車が走り回り、それを避けるように多くの人が行き交う。

吊り下げられた肉塊、雑多に積み上げられた食器、路上の食堂、目の前で解体されていく羊などを見ていると、いいようもない感情が湧き出してくる。自分は今、生きてここに立っているのだ。

ナンを焼くおじさん:クリックで拡大 市場の子供たち:クリックで拡大 チェスに興じるふたり:クリックで拡大 市場のちびっこ:クリックで拡大
1.黙々とナンを焼く男性  2.カメラに向かっておすまし  3.街頭チェスは大人の嗜み  4.ひとり遊びの少年は何を想う

バザールではまた、たくさんの子供たちを見かけた。母親に連れ立って郊外から買い物に来ている子や、バザールで働く親のそばでひとり遊びしている子、中には自身が働いている子供すらいる。それぞれの立場は違うけれど、どの子もキラキラと澄んだ目をしていたのが印象的だった。

彼らにカメラを向けたときの反応が面白い。はにかんだ笑顔を浮かべる子、サッと母親の後ろに隠れてしまう子、そして多くは満面の笑みを浮かべるのだ。撮影した写真を彼らに見せてあげると、弾けるような笑顔を浮かべて喜んでくれる。こんな打算なき笑顔は、子供ならではだろうか。

貴州省を旅したときにも感じたが、彼らの多くはけっして裕福ではない。だが、物質的にはあまり恵まれてないかもしれないが、ぼくらが持たない心の豊かさを持っているような気がするのだ。
 

2007年10月23日

●千の涙と九百九十九の石窟

クチャ市街の西75キロの位置に、キジル千仏洞と呼ばれる寺院跡がある。

ムザルト川左岸の崖面に開掘された、タリム盆地最大の規模をもつ石窟寺院で、現存するその数は230窟を越える。その壁面に描かれているのは仏教画だけでなく、貴族や武人供養者、西洋から伝えられた文物、楽器などがあり、当時の様子を伝える貴重な資料として知られている。

千泪泉:クリックで拡大
切り立った崖に囲まれた泉の上には、抜けるような青い空
切り立った崖間の険しい道を進んでいくと、不意に視界が開ける。目指すムザルト川だ。ここからしばらく進んだところに、キジル千仏洞とその研究施設である亀茲石窟研究所がある。

広大な敷地内には樹木が生え、小さいながら池もある。これまでずっと乾いた荒野を進んできたが、ここだけはまるでオアシスだ。ぼくは文明が川沿いに興るという史実を思い出した。

簡単な昼食を済ませたあと、ぼくらは千仏洞の西区と東区の境界線となっている渓谷へと分け入った。始めのうちは整備されていた歩道も徐々に山道となり、崖沿いに斜めにつけられた道やぬかるみに足を取られそうになる。歩くこと15分、不意に目の前に現われた終点が千泪泉だ。

これまで進んできた渓谷が袋小路になっており、正面の崖上からはチョロチョロと水滴が滴ってくる。千泪泉とはロマンティックな名をつけたものだが、この泉には次のような悲しい伝説がある。

かつて亀茲国の姫と石工の青年が恋に落ちた。ふたりの仲を認めない王は、千の石窟を掘れば許してやろうと難題をふっかけ、諦めさせようとした。石工は寝食も忘れ掘り続けたが、999窟を掘ったところで息絶えた。それを知った姫は千の涙を流し、それが泉となって残っているという。

渓谷を行く:クリックで拡大 キジル千仏洞:クリックで拡大 鳩摩羅什(クマラジュウ)の像:クリックで拡大 千仏洞への階段:クリックで拡大
1.久々のトレッキング気分 2.手作業で掘られた岩窟 3.仏典翻訳家クマラジュウ 4.急な斜面に石造りの階段が続く

そんな石工が掘ったという石窟(もちろん作り話だが)は、崖の斜面に黒々とした口を開いている。そこへ到る通路に関しては近年になって作られたものだが、石窟自体は4世紀~7世紀ごろに作られたものだといわれている。カメラは持ち込み禁止ということで、荷物を預けて見学した。

壁面を彩る青い顔料は、アフガニスタンで産出されるラピスラズリを用いたものだ。また壁に描かれた五弦琵琶(通常の琵琶は四弦)は世界で唯一、日本の正倉院に現存している。他にもギリシャ神話を表わす壁画が残るなど、シルクロードが東西を繋ぐ掛け橋だったことを物語っていた。

ただし、壁画のほとんどは無残に剥がれ、今ではほとんど見る影もない。ここもまた異教徒からの破壊や、調査隊という名の掠奪、さらには自然災害にまでさらされ、かすかにその痕跡を留めているに過ぎない。ぼくは頭の中で破壊箇所の補完をおこない、往時の姿に想いを馳せた。
 

2007年10月20日

●失われていく風景 (アクスからクチャへ)

ようやくたどり着いたアクスは、これといった見どころのない小さな街だ。

ここは中継のためだけに訪れた都市なので、我々はアクスで一夜を過ごしたのち、翌朝にはクチャへ向けて旅立つことになっている。個人旅行であればのんびりと下町の風情でも楽しんでいきたいところだが、時間の限られたツアーでは通過するだけの場所が増えてしまうのも仕方ない。

新疆風ぶっかけ飯:クリックで拡大
トマトの酸味が嬉しいスパイシーなぶっかけ飯は素朴で旨い
朝食はローカルな食堂にて、スパイシーなぶっかけ飯を賞味する。トマトの酸味が効いたタレは、ごはんと相性がよく、なかなか旨かった。

ぼくはツアーについているホテルの朝食は取らず、外で済ますことが多い。宿での食事はどこもありきたりなので、時間が許す限りは土地のものを楽しみたい。ただし、新疆では早朝から営業の店が少なく、この日が初であった。

朝食後はカシュガルから運転してくれたドライバーに別れを告げ、別のバスに乗り換える。クチャまでは約4時間の旅となるが、近いと感じてしまうのはすでに感覚が麻痺してしまったのだろうか。市街地周辺はポプラ並木ののどかな風景が続くが、オアシスから出ると再び荒野が続く。

前日のカシュガル・アスク間は単調な景色の連続で飽きを感じたが、この日はなかなか見どころも多かった。通常、アスクからクチャへ行くには国道312号が使われるが、今回は拝城を経由するルートだ。未舗装道を含む険しい道だが、よりシルクロードらしい風景が楽しめるという。

先日は天山山脈と平行に走り続けるだけだったが、この日は山岳部へも分け入っていく。いくつかのアップダウンを越えると、五彩山と呼ばれる不思議な風景が視界の先に広がった。層状に塗り分けられた奇妙な山の前には干上がった川があり、その底を縫うように道路が続いていた。

彼方に見える天山山脈:クリックで拡大 未舗装の道を行く:クリックで拡大 シルクロードらしいルート:クリックで拡大
左:天山南路が山脈に沿った道だと判る 中:揺れる荷台でロバたちも窮屈そう 右:この険しい道をかつて徒歩で通った

ここでトイレ休憩となるが、このツアーでは何度目かの青空トイレ。雄大な自然に抱かれての乾いた大地への放尿は、どこか清々しいものがある。ツアー初期には不満を漏らしていた女性陣たちも、心なしか楽しそうだった。少なくとも悪臭の酷いトイレよりは、よほどよいのではなかろうか。

クチャ手前は未舗装の道が続き、この旅での一番の難所となっている。ガイド氏は「苦しロード」などと駄洒落をいっていたが、窓から見る切り立った崖でこぼこ道は、イメージしていたシルクロードそのものだ。かつてこの道を玄奘三蔵や、キャラバン隊たちが旅したと思えば感慨深い。

このルートも数年後には、立派な舗装道になってしまうという。生活は便利になる反面、古の絹の道は失われつつある。今しか見られないその姿を、ぼくはしっかりと瞳に焼きつけるのだった。
 

> 全部読む |  1  |  2  |  3